余はいかにして仕事人間となったか

  • 並の人間は忙しすぎると仕事以外にやることをなくしてしまう
  • 仕事人間になりたくてなるのではない、環境に適合するためにならざるを得ないのだ
  • 仕事に没頭するがためにほかのことに楽しみを見出せなくのではない、仕事をしてるうちに他の楽しいことをわすれてしまうのだ
  • いろんな興味が減退していく、そして残るのは仕事のみ
  • タスクを消化することのみが快楽の仕事人間がこうして生まれる
  • 例えば読書、学生時代は哲学、エッセイ、社会学といった様々なジャンルの本を読んでいたが、今はどうだ、現実のつらさから逃れるための「生きづらい男の処方箋」の様なエッセイものばかりを読む始末だ
  • しかし、おなじ会社には自分以外もにもおなじ境遇の人間がたくさんいる、そいつらと俺の違いはなにか 


友達が欲しいと感じる理由

昔から漫然と自分は友人が少ないと思ってきた。昔は少ないという事実そのものが自分が他者にとって魅力ない人間である証拠だと思って悲しくなることもあった。しかし、大学生の頃からその事実を受け止め、魅力的な人間に少しでも近づこうと努力してきた。ひさしくそもそも何で友達を求めてしまうのかを考えることはなかったが、今その問いが再び頭に上ってきている。

何でなんだろう。

• 友達と楽しい時間を過ごしている時の一体感が忘れられない
• 同じ問題意識で話すのが心地よい
• 友達がいないこと=自分に価値が無いという考え
複数人でしかできない遊びがある、かつ、それを気心知れた人間とやりたい

つまりそれは、1人でいることと比して、友達と過ごす時間の方が楽しいということなのか。ならば、1人で人生を楽しむ方法を極めれば友達が欲しいとは思わないのか。

いや、違うな、1人遊びを極めてもたまには友達と話したい、感情を共有したい気持ちは残るよな。1人遊びの楽しさもあるけど、別種の友達と遊ぶ楽しさもあって、そのニーズは消えないのではないか。

友達がいれば困った時助けてくれるという話がある。卑近な例を出せば、法律問題で困った時、弁護士の友達がいれば気軽に相談に乗ってもらえる。そして、友人であればある程度の信頼関係があるはずだから、信頼できる弁護士を探す手間が省けるし、悪徳弁護士にに騙される可能性は限りなく低くなる。では、助けが必要無いほど経済的、精神的に自立していれば友達は必要無いのか。優秀な弁護士を探す/雇う経済力があれば、弁護士の友人は不要では無いか。

こう考えてみると、経済的精神的に自立しておらず、人生の1人での楽しみ方を知らない人が友人を欲しがると言えそう。頭脳鋭敏で、出世街道を進み、自分のいわゆる「趣味」をもっている会社の先輩が友達とあんまり戯れたがらないのも理解できる。

まとめ。
  • 友達を欲しがるのは精神的経済的に自立していないから。自立すればするほど友達を求める度合いは低くなる。
  • 仲のいい友達と楽しい時間を過ごす時の一体感は忘れ難いから。
ではどうすれば友達を求めなくなるのかって?経済的精神的な独立を定義するのは難しいけど、少なとも友達を得られた時だとは言えそうだ。

では、友達とは?

教訓

  • スケジュールは前後関係/依存関係、リソース状況、要望を考慮して作成する
  • 一つ一つの矢羽の内容、場所の理由について説明できるようにする→スケジュールに魂を込めるといこと
  • 資料の語句、記載方法に統一感
        点のつけ方、句読点のつけ方、
        ですます/体言止め、

  • 遅延してスケジュール変更する際は、当初スケジュール設定の意図の説明、変更の理由、後続作業への影響分析について説明

相談のお作法

自分の中で完結していても相手に伝わらない前提は多数ある
だから話す前に論理的に自分の考えをポイントバイポイントで整理する必要がある
それを言語化するだけでも人に自分の考えていることを話す意味はある


うっかりミス_0426-0501

04260427
家賃振り込み忘れてた
実績入力忘れてた
報告へのメール忘れてた
バネのメール見逃してた

042829
無駄なMTGのじかんがあった→一旦切るべきだったーそっちの話聞こえないんで長くなりそうなら一旦MTG終わっても良いか
検証始める前に方向性決める
報告が荒い→リスクかけていない
スケジュールチェックしてない

0430
竹本さんに依頼する前に現地があげてきた課題が本当の課題なのか確認し忘れた
いけるかわからんけれど、いけると言ってどうにもならんところで、曖昧な返事をしてしまった
まとめて勤怠つけようとした

0501
だらだら仕事した
スケジュール立ててなかった

退屈_2

人は暇つぶしにFacebookを見る。そこでは友人が、もしくはそのまた友人が写真をアップロードし、友人への感謝や楽しい思い出を開陳している。
またある人は暇つぶしに他人のブログを読む。他人の思考の深さ、経験の多様さ、周りの人間の優秀さ、いろんな人間に囲まれている人間をみて、「すげーなー」、「全然俺足りてないなー」と感じる。
ソーシャルメディアは人と繋がる、関係を深めるきっかけを与えてくれることがある。けど、それ以上に自分に焦燥感、欠乏感を与えている気がする。
それは人を幸せにしない。めくるめく自分の可能性に気付かせて、新たな可能性への決断へと自分を促しはしない。なんでだろう。
自分と他者には圧倒的な差があるように感じさせるから。
それは今の環境を退屈に感じさせる。自分が懸命になっている目の前の事象を矮小化する。そんなものはいらない。

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世の中でいろんなことが起きている。
政治、国際情勢、景気、ビジネス動向、Tech、新たなサービス、新たな製品、、、
周りは常にUp to dateであれと促すけど、それらの情報は本当に自分にとって必要だろうか。
人には自分の思考スピード、思考のキャパに合わせた情報しか取り入れられない。とするならば、キャパ以上の情報を取得して溢れ流したところで、何の意味があるだろう。
そんな情報はいらない
それよりも情報を処理できるようになるための訓練、基礎概念こそ必要だ。
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結局は自分の今のレベルに応じて仕事しかまわってこないし、人も集まらない。

この世の中で強く、後悔なく生きていきたい。そのためには全然レベルが足らないな。人生しんどくて当たり前、けどその中でも逞しく、楽しく生きていきたい。そのために必要なのは、情報ではない。自分と向き合う時間と、体系化された知識、それが俺には必要だ。